うつ病からの脱出ー精神科にダマされないために 5-

今日はこのテーマの最終回です。

著書『精神科は今日も、やりたい放題』から下記抜粋します。

精神科不要論
 ここまで書いてきて、筆者は精神科を不要だと思っているのかと考える人は多かろう。
 結論をひと言でいえば、精神科は不要であると断言できる。
 しかし、これはある意味矛盾している。「まともな精神科医などいないし、いたとしても存在価値がない」と思っているのに、「まともな精神科医のかかり方」を書いているのだから。ただ私は、前者は目指すべき目標として、後者は妥協的な対策として示している。
 これまでに示した詐欺、人権侵害、被害、ウソ、非科学性は当然のこと、薬物による依存や禁断症状、不可逆的な脳損傷はもはや犯罪といっても過言ではない。
 精神科ではだれも治らないので、クリニックでも病院でも患者はたまっていく一方である。この事態は、だれも治さないことによって通院患者数を増やし、収入を増やそうと企んでいるに等しい。社会が病んでいるから精神科に患者がたまるのではないということをいまだ一般人はだれも理解しようとしないようだ。
 これらの罪はさておいても、そもそも精神とか心とかの問題は、人間的な問題であり、社会的な問題であって、医学の問題ではない。それを医学の問題であるかのようにすり替え、自分たちの利益へ誘導した精神医学界の策略は、奸智のひと言に尽きる。それとともに人々が根本的な問題から逃げ続け、精神科という見せかけの看板と専門家に問題を丸投げしたともとらえることができる。
 家族の問題を真剣に考えて取り組む人間は日本にはいなくなってしまった。個人的悩みや心理的問題を、まるで教会や何かで啓示を与えられたり、聖母に癒されにいくかのような気分で精神科を受診するのである。
 しかし、そうしたことはそもそも医学が負うべき仕事ではない。人々が普遍的に望み、かつ絶対に求め得ぬものを医療という名のもとに誘導したからこそ、今の精神医療被害の数々は引き起こされることとなった。
 だから精神科などというものはこの世に存在してはいけない。これが存在するからこそ、人々は甘いものに群がる蟻のように精神科に集まり、最後は踏みつぶされていく。
 最初から「精神科などない」「精神を治療してくれるような都合のいい組織も科学もない」という前提に立てば、人々は必ず自分で立ち直り、生きていくカを持つものである。 
 もし一人でそれが無理だとしても、恥も体裁も乗り越え、人々の協調の中で改善策を見いだしていく。
 精神科治療を全面否定するなら、代案を示せと各所で必ず質問される。
 だが、代案という観念自体がすでに精神医学に洗脳されていることに、ほとんどの人は気づいていない。
 精神的問題の解決に抜け道などあろうはずがない。素人が考えてもわかるように、解決策とは、原因の除去、トラブルへの取り組みしかあり得ない。
 少し別の視点で考えよう。多くの人が懐かしむ戦後から高度成長期にかけて、精神科などというものはほとんど存在しなかった。街中にメンタルクリニックなどなく、精神病院は山奥で怖い場所だというイメージが強かった。大学病院でも総合病院でも精神科医などという人間自体が変人で、むしろ精神科医たちこそ精神病ではないかという雰囲気が強かったのである。
 ではそのような時代、人々は精神的な問題や社会的な問題にどう対応していたのか。
 想像すれば明らかだし、その時代を生きてきた人に聞けばよい。トラブル、喧嘩、深く激しい議論などは当たり前の中で、徹底的な人間ドラマの中で精神的諸問題が解決されていたのである。
 それが一九九〇年代後半から変わってしまった。CMと新聞広告によって「精神科は怖くない」「精神科は精神を治してくれる」という誤ったイメージが浸透してしまった。これを覆すのはかなりの困難である。何せ全国民が洗脳されているのだから容易なことではない。
 人々は安楽しか求めていないし、何がなんでもトラブルを避けることだけを考え、臭いものには蓋をして学ぼうとはしない。「体裁」「プライド」「しがらみ」「周囲の目」「踏み込み」などばかりを気にして、その結果、問題に対して正面から取り組むのではなく、ごまかしに走ろうとする。そのごまかしこそが精神科であり、精神薬である。飲めば気分はよくなるかもしれないが、それは覚醒剤を飲んで逃げているのとまったく同じことだ。
 だからこそ何度でも言おう。精神科は存在してはいけない。
 本質的に考えて、精神科の改善を目指すこと、薬の良き利用法を試行錯誤することなど、いい人のふりをして世の中をより混乱に陥れているのと変わりないのである。
 精神科さえ存在しなければ、人々は自分で精神的諸問題を解決するのだ。

以上、抜粋終わり

著者は精神科は不要とばっさりと切り落としている。

私は不要とまでは言わないが、

ただ治療方法はこれまでの薬物療法を検討し直す必要があると言えるだろう。

製薬会社の利益のためではなく、

本当に患者の側から考えた、

治すにはどのような治療が望ましいのかを。

うつ病からの脱出ー精神科にダマされないために 4-

今日はこのテーマの第4弾です。

著書『精神科は今日も、やりたい放題』より下記抜粋します。

⑥自分でその症状を良くするためにできることはないか
 たとえば、運動することである。激しければいいというものではなく、好きな運動を勧めたい。ただし長続きすることが最も大切である。
 また、踊ることもお勧めする。古くから人が踊ることは精神発露と不分離な関係にあった。踊るとともに歌うことも大事である。下手で結構、恥ずかしければ一人でカラオケボックスにでも行けばよい。音楽療法という言葉があるが、古来歌うのも精神的効果があったという証だろう。
 私はサウナ風呂をよく勧める。サウナ風呂は白夜のフィンランドで生まれたので、不眠に対して効果があり、かつ副交感神経優位になるし汗をかくのもそのまま治療となる。囲碁、将棋、チェスなど古典的ゲームには意味がある。単純だが奥深くその中で相手の心理を読む必要があるゲームである。自閉症や発達障害とレッテルを貼られるような人たちには特にお勧めだと思う。逆にテレビゲームや携帯ゲームはまったくお勧めできない。自閉 傾向の強い人がやればいわゆる「ネトゲ廃人」になる可能性がある。農業や自然に親しむことはなにより重要である。自然の中で一人暮らししたり農作業に従事して良くなった人を何人も知っている。農作業とか自然に触れるということはそれだけで一種の鍛えになっているのだ。

⑦いろんなトラブルや苦痛も人生の一貫である
 人生を生きていくうえでは、だれしもさまざまな精神状態になるし、そのなかでモノへの八つ当たりや喧嘩、ことによっては錯乱したりすることもある。一般人も精神科医も簡単にこのことを病気ととらえるが、その大半は脳の疾患とはなんの関係もない。
 それは病気ではなく、社会的問題であり、薬で治る代物ではないことを認識することが大事なのである。たとえどんなにメンドくさくても、人と人とのぶつかり合いによってしか解決できない代物であることを知らねばならない。

⑧今の精神科医に洗脳されていないかどうか
 すでに通院している人は、「○○病」という診断をすでに鵜呑みにしていないだろうか。
 精神科というのは、いい加減極まりない主観の領域であるから、人によって診断が姿を変える。
 病院を変えて同じ診断名なのは前医の顔を立てているからにすぎない。精神科ではセカンドオピニオンなど受けても無駄である。
 精神科医のほぼすべては優生学思想の持ち主で、精神医学という科学でもない主張を根本から信じ切っている人々である。そのため精神医学を否定できる精神科医でなければセカンドオピニオンの存在価値などないが、そのような精神科医はまったく存在しない。ちなみにかくいう私は内科医であって精神科医ではない。
 何か違う、何かおかしいという素人的な感覚を決しておろそかにしてはいけない。精神科医ではない人間の意見を総合する視点を持たなければ、永久に詐欺師の食い物となることを知らねばならない。

⑨日常生活や食生活に問題がないか
 人間の最も基本的欲望である食欲、睡眠欲、性欲についての見直しも必要である。
 食事の内容はどんなものより精神衛生においても大切である。インスタント食品頼りの食事では必ず精神的不調に陥る。
 気分が落ち気味の人は肉食を中心に、イライラしたりノイローゼ気味の人は野菜食を中心にした食事に切り替えてみてほしい。
 脂肪を避けすぎるのも良くない。豆、ゴマ、貝類、海藻類、牡蛎など栄養豊富な食物をうまく活用する。炭水化物や甘いもの頼りの食事であれば、精神状態が悪くなる率は飛躍的に増える。
 睡眠もただ眠るというだけではなく、快適に眠るために工夫をしているか、常に考えねばならない。安眠グッズというだけでも現代にはたくさんの物が売られているが、不眠で相談に来る患者さんの場合、そうしたグッズを使うなど睡眠への工夫をしているのをほとんど見たことがない。
 性欲については日本の中では語ること自体がタブーとされているかのようだが、大人であればこれを求めるのは当たり前の話である。世界中の平均セックス回数を取ってみても、日本人は極端に低い。科学的に立証されているわけではないが、このことと精神状態とが無関係であるとは私には思えない。欲望ばかりではもちろんいけないが、日本人は過度に動物としての根源的欲求を抑えすぎていないか、というのも検討の余地があろう。

⑩それでも薬を飲むのなら極少量になっているか
 ここに書いた九つの心得を意識・実践したとしても、良くならないという人は一定数いるだろう。そこで初めて医師の出番が来るのである。
 そしてその場合、精神薬の使用は最低限度であることにこだわらねばならない。
 精神薬そのものが、覚醒剤や麻薬まがいの代物だからである。言い換えれば毒そのものであり、毒(薬)をもって毒(強い精神症状)を制すという形になる。
 ただし、決して根本的に改善してくれるわけではないことを知らねばならない。
 もし飲んでいて、落ち着くからとだらだら飲んでしまったら、すぐに依存して「おいしい顧客」になってしまうということを忘れないでほしい。あえて顧客になりたい人がいるのなら、好きにしてもらえばいいが……。

以上、抜粋終わり

私は精神分野の問題に対しては、

根底に食事の問題が深くかかわっていると考えています。

食事の内容が知識がないために、

むちゃくちゃな人が多いのです。

もっと食事について、

勉強する必要があると痛感しています。

うつ病からの脱出ー精神科にダマされないために 3-

今日は同テーマの第3弾です。

著書『精神科は今日も、やりたい放題』から下記抜粋します。

 次からこの一〇の心得について一つずつ解説していくことにしよう。
①精神症状が本当に医療でしか解決できないのか
 あなたの精神症状は、借金、虐待、DV、ストーカー被害、大切な人の喪失、パワハラ、いじめ、不登校などに起因するものではないか。これによる精神的な苦痛は、当然ながら精神科では治りはしない。
 治ったといってもそれは見せかけである。覚醒剤や麻薬まがいの薬でごまかしているにすぎないのだ。解決のためには原因を取り除くしかなく、またそれが最良の治療である。
借金は返す見通しが立つか実際返し終わらなければ、それに付随する精神症状が消えるはずはない。虐待もDVもストーカー被害も、それがなくならない限り同じである。
 この世には借金のための本当の金策を提言し、二〇〇〇人の相談を受け、自殺者ゼロに導いているという組織が存在する。精神科に頼らなくても精神的な問題は解決できる。
 たとえば大切な人の喪失による精神的苦痛は、必ず受容期を経るしかない。これは消してはいけないものなのである。
 パワハラやいじめは何よりも会社や学校に行かないことが基本である。そして具体的人間的な対処をしないといけない。不登校に陥るのも理由あってのことだから、その理由を頼りに解決を図らねばならない。これらすべてが精神科による薬で解決できるものでは決してないことを、まず検討しなければいけない。

②働きすぎになっていないか
 これは日本人に特にありがちである。生きがいが仕事であったり、リストラの影におびえて無理をしたり、中間管理職でにっちもさっちもいかない場合によくみられる。
 しかし、それで体調を崩すよりも人間としては休むほうが大事に決まっている。休めないと思っている段階で、すでに社会の奴隷になっていることを気づかないと、たとえ回復したとしてもまた同じ経路をたどる。すべてにおいて働きすぎは病気の源であることを知らねばならない。病気はだれも代わってくれないのだ。
 働くなということではなく、オン・オフをはっきりさせることが重要であろう。

③社会の常識に惑わされていないか
 「美人とは痩身のモデルのような体型のことである」とか、「社内の和を乱すような行動をしてはいけない」といった〝社会の常識〞に過剰に囚われる必要はない。こうしたことに囚われすぎるともう行きつく先には精神的苦痛しか待ってはいない。
 痩身が美の象徴であるというのは、CMなどによって作られた強い刷り込みである。海外ではまったく違う価値観などざらであり、日本でも時代によって美の基準も変遷している。こういう常識に支配されるとどんどん精神的苦痛を作っていく。
 この精神的苦痛に対して効く薬など存在するはずはなく、常識や洗脳から解き放たれる以外に改善の道筋はない。

④そもそも病気であるのか
 これまでのさまざまな「詐欺話」によって、説明してきたとおりである。たとえば不安を感じて精神科を受診すると、「不安障害」と診断されるが、不安というものは本来人間にはあって当たり前、むしろないほうが不思議なものである。それをなくそうという目的で精神科の門をたたくということは、体のいいカモになるということと同じであることを知らねばならない。
 また月経に関する精神の諸問題や、季節性や天候性のうつといわれる状態があるが、これに精神薬を使うなどというのは愚の骨頂である。副作用によってホルモンを狂わせ、むしろ改善を阻害する。
 個人的意見では、こうしたことは動物本能の名残ではないかと思うので、自然物に近いもので対処したほうがいいだろう。これらが漢方の得意分野であることもそれを示唆している。

⑤他科によってしっかり検査したか
 しっかりした医学的検査もないまま精神疾患と診断されている例が跡を絶たない。
たとえば、甲状腺障害、膠原病、更年期障害、血糖調節障害や低血圧、栄養障害、アレルギー性のもの、髄液漏出症候群、高次脳機能障害などに起因する、精神疾患と診断されやすい状態がある。これらだけは他科を受診することで、せめて鑑別しておきたい。

以上、抜粋終わり

①~⑤をしっかりと考察してもらいたい。

どの問題も根本的な原因はどこにあるのか?

そこを探っていくと、

解決策が掴めるはずである。

精神分野場当たり的なことをしていても治らない。

またそのままほっておいても当然治らない。

何故なら、すでに自然治癒力で治る範囲を超えてしまっているからだ。

ならどうする?

答えはただ一つ。

原因を突き止め、

その改善を行わなければ、

治らないということである。

我々治療家ができることは、

体に出ている症状を緩和して楽にし、

一緒に原因を突き止めて上げることである。

そしてその原因をどうすれば解決することができるのかを、

一緒に検討するぐらいしかないのである。

しかし、最後は自分で自身で解決するしかない。

何故なら、それはその人が人生で乗り越えなくてはならない課題であるからだ。

うつ病からの脱出ー精神科にダマされないために 2-

今日は精神科にだまされないの第2弾です。

著書『精神科は今日も、やりたい放題』から下記抜粋します。

「良識」と「権威」も罠である
 ここで二つの問題点がある。一つは良識的な精神科医という甘い罠、もう一つは権威ある大先生という甘い罠である。
 世には私などより薬学にも秀でていて温厚な精神科医は数多いと思う。しかし優秀ではあっても、精神薬を一生飲むよう勧めることがほとんどだ。
 また薬を減らしてくれる良識的精神科医というのは、患者や家族にとってまことに都合がいいが、なくしてはくれない。
 こういう精神科医が増えたことは、以前よりは精神医療界がましになった証だろうが、低温保存状態で患者受診を維持させようとしているようなものである。薬を減らせば体は楽になるので、喜ばれるには決まっているし、その結果最小限の処方ですめばまるで神のように扱われるだろう。
 しかし、結局このことは一生を薬漬けで終わらせようとしたり、思想的に洗脳しょうとする甘い民のための準備工作なのである。昔の共産主義やカルト宗教がやっていたやり方と変わらぬ手法が、いまだ精神医療界には良識派のやり方として続いているのだ。
 もう一つ、日本人は権威にとても弱い。そして精神科医ともなれば、それだけで精神のすべてを知っていそうな雰囲気で、何も言えなくなってしまう。
 しかし、精神科という領域は権威であるほど、ベテランであるほど、有名であるほど、危険であると考えねばならない。なぜなら繰り返し述べているように、すべての精神科医の判断は主観に基づくものだからである。権威ある大先生がいる病院は私が挙げた一八条件のうち、いくつかを満たすはずである。彼らは権威を頼りに金を集めスタッフをかき集めているから。だが、その病院が本当にいい精神科とは限らない。
 たとえ患者がなんと言おうが権威が黒といえば白も黒になる、それが精神医療界なのだ。だから詐欺に引っ掛からないためには、相手が権威であるということに振り回されてはいけない。逆に言うと権威を頼りに受診した段階で、すでにカモなのである。あなたが本当に詐欺にかかりたくないと考えているなら、権威に頼ることこそやめねばならないのである。

精神科を受診する前の一〇の心得
 さて、もしあなたが何かしらの精神的苦痛や症状を抱えたとき、はじめて精神科に行こうというその前に、できれば以下のことくらいは考えてから行っていただきたい。
 またもうすでに精神科医にかかってドツボにはまっているとしたら、できるだけ早く病院を変えると同時に、自分たちでできる以下のことを実践していただきたい。
 何よりも心療内科、精神科という分野なのだから心掛けが大事であるに決まっている。
 しかし、多くの患者さんの場合、この心掛けからすでに外れていることが多い。まずここを修正しなければ、たとえ本当のまともな精神科医にかかったところで無駄なのだ。
 その心得となる、次の一〇項目についてよく検討してみることである。
① 精神症状が本当に医療でしか解決できないのか
② 働きすぎになっていないか
③ 社会の常識に惑わされていないか
④ そもそも病気であるのか
⑤ 他科によってしっかり検査したか
⑥ 自分でその症状を良くするためにできることはないか
⑦ いろんなトラブルや苦痛も人生の一貫である
⑧ 今の精神科医に洗脳されていないかどうか
⑨ 日常生活や食生活に問題がないか
⑲ それでも薬を飲むのなら極少量になっているか
である。
 
以上、抜粋終わり

日本人は権威に弱いとは本当にそう思う。

日本人は器質的に真面目なため、

すぐに人の言うことを信用してしまい、

それは素晴らしいことの反面、

悪意のある人たちに利用されることにもなる。

つまり、言っていることが信じるに値するかどうかという観点が抜けているのだ。

だから専門家と呼ばれる人が言うのだから正しいはずだと、

すぐに自分がそれについてどう感じるかを確認することなしに、

丸呑みしてしまう。

つまり悪意のある人からすると洗脳しやすいのだ。

洗脳マシーンとしての典型がテレビの報道である。

テレビはすべてスポンサーの利益のために報道されている。

それを理解していないので、

テレビの情報はすべて正しいと思い込んでいる。

しかし実際はスポンサーの思惑に沿ったものしか報道されず、

つなり不利益になることは当然ながら報道しない。

だから本当のことであってもスポンサーの意に沿わなければ報道されないのだ。

テレビのスポンサーはどんな企業がしているのか。

医療業界で言えば、

製薬会社である。

つまり、製薬会社が利益を得れるように、

番組では報道されるわけである。

最近医療番組がいくつか報道されているが、

あれを見ていると、

医者が病気を治しているように見られる。

しかし、実際医者が病気を治すことはできないのだ。

医者は薬を使って症状を抑えるだけで、

治しているのは自分自身の自然治癒力である。

そのことをテレビ番組を見ていると、

忘れてしまい、あたかも医者が治しているように思わせる、

マインドコントロールにかけられると言う仕組みである。

マインドコントロールにかけられることによって、

ますます医者に依存することになり、

医者に依存する=薬が売れるという仕組みが出来上がるのだ。

もし医療番組を見るとするなら、

どうすれば自分自身で病気を治すことができるかという視点で、

見て欲しい。

そうすれば、少なくともマインドコントロールにかけられる率がうんと下がると思いたい。

すべては自分のためなのであるから、

どんな時も自分で治すという考えは忘れないで欲しい。

うつ病からの脱出ー精神科にダマされないために 1-

 今日からは精神科にだまされないためにというテーマに入ります。

著書『精神科は今日も、やりたい放題』から下記抜粋します。

良心的精神科医さえ薬を使う
 ここまでで、どれだけ精神科の診断がいい加減極まりないものか、どれだけ非科学的か、どれだけ主観的か、どれだけ本人の苦痛でなく周囲の苦痛に左右されているか、という点を述べてきた。
 と同時にこれに薬を投与するのがいかに無意味なことか、それでも日本で薬物療法しか行なわれないことは、ただの儲け主義にすぎないことを述べてきた。
 非科学的なことを根拠に多額のお金をせしめ、人間性を放逐した行為はまさに詐欺、犯罪といってしかるべきである。まさに日本中の精神科医は詐欺師といっても過言ではない状況にあるといってよい。
 いや、言い過ぎだろうか。私のところにも仕事柄、多くの患者さんが他の精神科から流れてきた。だからすべての精神科医が悪だと思い込んでいるのかもしれない。日本にも精神薬治療ではない精神科医がまだまだ隠れていると信じたい。親ではなく、社会ではなく、本人がどうしたいのかを優先する医師がいることを信じたい。怒ろうが泣こうが喜ぼうが叫ぼうが喧嘩しようが、診断や薬ではなく、まっさらな人間のまま対応してくれる精神科医もいると信じたい。
 もしメンタルヘルスという概念があって、絆の弱い日本社会でそれが必要だと訴えるなら、その方法は医師それぞれにすればいい。癒しの能力があると思う人はそうすればいいし、スパルタのほうが向いていると思う人はそうすればいい。
 しかし、私の知る限り、そのような治療をする医師にお目にかかったことがない。どんな精神科医でも向精神薬を使う。非常に多い量を使う人がほとんどである。ごく少数の良識的精神科医と呼ばれる人たちさえ必ず精神薬を使う。抗精神病薬(メジャートランキライザー)を使わない代わりに安定剤や抗うつ薬を使うにすぎない。
 私は、自分の子どもだけ精神障害呼ばわりして、精神科医と共同で薬漬けする親たちの自己都合的な行動を擁護するつもりなどさらさらない。自閉症は親には関係ないなどという、事実を無視した都合がいい意見など潰れてしまえばいいと思う。患者たちに多剤療法や電気けいれん療法をすること、医療観察法で一生病院に入れておくことはもちろん反対である。患者たちがもし社会でトラブルを起こせば、ひたすら法律にのっとって彼らの違法行為が裁かれればいいではないか。
 私はこのような〝やくざ医師〞だが、それでも精神薬によって苦しめる医師や、精神薬 により人間をコントロールしようとする親よりはましなのではないか、と思っている。
 なぜなら精神病院でそのような治療を受けるほうが、法律によって刑罰を受けるより現実的に考えればはるかに重罪だからだ。そしていったん今の精神病院に入ってしまえば社会復帰への道は極端に狭くなる。

精神科は存在自体が悪
 どうして精神科の悲劇は起こってしまうのか。それはしょせん彼ら精神科医が、よりよい精神医療という立場から物事を考えるからであり、精神科医性善説から考えるからだ。
 そんなわけはない、精神科とは歴史上収容隔離を基本とした、存在だけで悪なのである。それでも存在価値があるというなら、それは必要悪なのだ。
 精神病のすべては医学的、科学的には証明できず、すぐに人権侵害につながる。だから精神医療には本人の選択を最も重視するという考えなしには成り立たないのである。
 そして精神薬のすべては猛毒であり、取り返しのつかない依存性を持ち、脳を破壊していく。そんな薬や治療が悪でなくていったい何なのだろうか? それら向精神薬のリスクをすべて説明、理解し、それでも飲むことを希望するものだけが精神医療を受けてもいい存在である。今はこの最低限の基準がまったく守られていない。

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 だからこの業界に関して言えば性悪説から入らない限り、良くなるはずがないのは必然である。にもかかわらず日本人は権威に目がくらみ、“精神科医の先生”がおっしゃることは正しいに決まっていると考え、無駄な助けを求めようとするがため、詐欺に引っ掛かってしまう。
 精神科ではよく「誤診」という言葉を耳にする。しかし心療内科や精神科の領域には、そもそも誤診という言葉は存在しない。もっといえば病名をつけられているものはすべて誤診と呼ぶべきである。
 なぜならこれまで指摘してきたとおり、精神科の病名のすべてが主観によって左右されるものであり、周囲の事情によって医師によって左右されるものだからである。親が統合失調症から発達障害に変えたいと願えば変わる、それくらいいい加減な代物なのだ。
 これらを踏まえて、それでもやはりあなたが精神科医を必要とし、かつ精神科医の詐欺に引っ掛かりたくなかったら、以下の点に注意して選んでもらいたいものである。

①精神科の診断名などというものは「いい加減極まりない」と認識している
②精神科の診断名などというものは「便宜上」であるということを知っている
③精神薬を使わない、もしくは使っても頓服程度にとどめて使う
④精神薬がただの対症療法だと認識している
⑤決して精神薬を「一生飲め」などと言わない
⑥通院することを本人の意思に任せている(要するに無理強いして通院させない)
⑦薬を飲むか飲まないかも本人の意思に任せている
⑧薬の危険性や依存性を説明する(簡単でもよい)
⑨一分診療などはしない(混んでいてもせめて五~一〇分は使ってほしい)
⑩必要な場合、カウンセラーなどを用意している(原因追求の姿勢)
⑪他の精神科医と比べて法外な値段を要求しない(カウンセリング料やサプリ代で月に数万や数十万というクリニックは多い)
⑫福祉や他の業界との連携ができている
⑬厳しい意見や嫌なことを本人や家族に言える(温和に言える人ならさらにベスト)
⑭薬やカウンセリング以外に、何をすれば良くなるかを指導してくれる
⑮具体的に自分をどう鍛えるべきかを教えてくれ、試練を与えてくれる
⑱医師自身が自分を○○障害であると言えるくらいの医師のほうが良い
⑯最終目標が「受診を終わりにする」の医師である
⑰安易に障害年金や生活保護を勧めない

以上、抜粋終わり

薬を使わない精神科医はいるのかと言えば、

少数ながらおられるようです。

実際に自分で診察を確認したわけではないので、

確信を言えるわけではないのですが、

著書で拝見したり、

あと、先日アメブロでも薬を処方しない精神科医のからから、

読者登録をいただいたので、

薬を処方しない精神科医はおられるようです。

つまり、良心的な精神科医はおられると信じています。

なので、精神科を受診されることを考えている方は、

是非、調べてみてください。

うつ病からの脱出ー〝本物〞は三〇〇〇分の一「統合失調症」2ー

今日は統合失調症の第2弾です。

著書『精神科は今日も、やりたい放題』から下記抜粋します。

私が定義する統合失調症
 ここまで書いてきたような内容の患者たちは、とてもじゃないが治療もやむを得ないというほどの統合失調症とは呼べない。恐らく遠い未来には幻覚をきたす科学的理由も解明されるだろうが、現代医学では統合失調症の定義が一切できないので、私は治療を許容できる統合失調症を以下のようなものと提唱している。
 その条件とは、
①薬(タバコ、アルコール、違法薬物も含めて)を飲んでいないまっさらな状態で
②自分を責める幻聴、被害妄想などが非常に強く
③そのことによって自己(他人ではなく)に明らかな有害事象があり(たとえば自殺企図など)
④生活が一切成立せず、生存さえも保てないほどの状態が続き
⑤一過性ではなく、数カ月に及びその状態が続くもの
⑥そして患者本人が治療を希望するもの
 である。
 初期統合失調症理論というのがあった、イヤ、一応今でもある。
 自生思考、気づき亢進、漠とした被注察感、緊迫困惑気分の四徴が基本であるらしい。
 しかし、この症状や特徴は発達障害の特徴とあまり大差がない。そして発達障害専門医とやらは、それを発達障害の二次障害だと強弁する。
 しかし、これは本当だろうか。言語が難しいので一般人にはわかりにくいかもしれないが、これらの四徴というのは、神経質な性格を持ったり追い詰められたりすればだれでも持ちうる症状である。
 これらの行動や症状を持つということは、人間として自己を守ったり自我を形成するための本能のようなものだ。
 精神科医たちは統合失調症専門医であれ、発達障害専門医であれ、これを病気であり障 害であり薬物により改善させるべき問題であると述べる。これは恐ろしいことである。私に言わせれば、人間を人間でなくさせるための方針と呼ぶにふさわしい。
 この初期統合失調症という概念も、発達障害という概念も、存在するとしてしまったらどんなに言い訳を取りつくろおうが、必ず大きな負の遺産になってしまうのである。
 薬物投与、薬物依存、差別、人間の可能性の排除、レッテル貼り、そういう負の遺産である。これらの概念が存在するからこそ早期介入、早期支援が行なわれるのである。この概念が存在するからこそ精神科で被害を受ける人が増加するのである。この概念が存在するからこそ、疾病利得にいそしむ人が増え、虐待の口実を作れる親が増えていくのである。

薬で統合失調症になる原理
 また統合失調症について考えるとき、必ず薬剤性精神病について知識を持たねばならない。これは少し薬理学的な話になるが、勉強していただきたい。
 たとえば不安などの症状があるものの、幻覚や妄想がない患者さんがいたとしよう。
 そのとき精神科医のパターンとして最初、抗不安薬や抗うつ薬で治療することが多い。その治療の問題点は先に述べているのでここでは割愛するが、たとえばその薬の影響で暴れてしまっても診断が統合失調症になってしまう。またその精神薬で改善しなかった場合、抗精神病薬(メジャートランキライザー)という薬を処方する。ここが重要な問題である。
 抗精神病薬は基本的にドーパミンというホルモンを抑える薬で、統合失調症はドーパミン過剰になっているという仮説に基づいて薬が開発された(ここでも仮説である)。
 しかし、ドーパミンが過剰になっていない患者さんに対し、この薬を授与するとどうなるか。
 薬は脳の中でレセプターと呼ばれる受け皿に作用し、脳は「ドーパミンが出せなくなったぞ?」という疑問からレセプターを増やしていく(これをアップレギュレーションという)。
 もし急に薬をやめたり減らしたりすればどうなるか。
 薬の量に対応していた脳の中は、いきなりレセプターを減らすこともできないため、疑似ドーパミン過剰状態になる。そうすると統合失調症と似たような症状を呈する。これを過敏性精神病とか薬剤性精神病などと呼ぶ。
 この理論もまた仮説の域を出ていないのが難点であるが、臨床を見ていれば、このようなケースはすこぶる多い。
 これはつまりどういうことかといえば、統合失調症ではなかったのに、薬物によって疑似統合失調症にされてしまったということである。
 なぜ私が統合失調症として治療を許容する条件として真っ先に①をあげているか。その理由がここにある。

一〇〇人に一人という数字のマジック
 最後に統合失調症の頻度について触れてみよう。書類やインターネットを見れば統合失調症は一〇〇人に一人程度でまったく稀ではないと記載されている。
 しかし、個人的な経験でいえば、これはまったくの間違いであると断言したい。
当院は小さいクリニックながら本を書いたりしている関係で、かなり重症の方が集まる。明確な幻覚や妄想があり、会話が成立しない支離滅裂さも兼ね合わせている患者さんがいないわけではない。しかしその割合は患者さん全体の一〇〇人に一人いるかいないかである。難しいのはこれらを科学的に証明できないことだ。だから前述の治療条件は常に留意せねばならない。今国民の四〇人に一人くらいが心療内科を訪れるということなので、単純計算しても統合失調症の診断をされる可能性がある人は、三〇〇〇人に一人程度ということになる。
 治療を希望する人、治療が必要だと私が考える人はさらに少なくなり、五〇〇〇人に一人くらいかもしれない。この一〇〇人に一人という話は数字のマジックであり詐欺への誘導であると私は考えている。良くなる病気だから恐れず受診せよというわけだ。
 しかし、これこそが大きな問題のない人が統合失調症と診断されて、薬を飲まされていることを示す一端ではないだろうか。とどのつまりは宣伝販売行為である。
 結論をいえば、私の個人的意見であっても、統合失調症と現在呼ばれている患者さんの中で、真に統合失調症と呼べるレベルであり、本人が治療を許容し毒でも麻薬でもありうる薬を投与する必要がある人は、約三〇〇〇〜五〇〇〇人に一人、〇・〇三三〜〇・〇二%にすぎないということである。詐欺がここに極まったといえよう。

以上、抜粋終わり

統合失調症もだいたい薬漬けになるようである。

何度も言うが、

薬では治らないので、

薬害に遭いたくなければ、

他の治療を選択することを勧める。

うつ病からの脱出ー〝本物〞は三〇〇〇分の一「統合失調症」1ー

今日のテーマは「統合失調症」です。

著書『精神科は今日も、やりたい放題』から下記抜粋します。

統合失調症も精神科医の主観が決める
 まず統合失調症の基本的な症状とは何か、おさらいしておく。
基本は妄想、幻覚(幻聴)、思考の解体(支離滅裂であること)の三つ。これを前提として以下をお読みいただきたい。
 現在最も普遍的な精神病といわれる統合失調症の大半でさえ、病気というか疑わしい。
今やコンプレックスなどから被害妄想的になっているものも統合失調症、自分の思考と幻聴が区別されていない人も統合失調症、社会的に追い詰められている人も統合失調症であるとされる。これなら昔の暗殺者に狙われた君主などはみな統合失調症である。殺しに来ない人までも敵に思えてしまう=被害妄想を持っている、と判断されてしまうからだ。
 統合失調症という概念には思考の解体というのがある。支離滅裂な会話があったり行動があればすべて統合失調症と診断してしまう。これらはすべて精神科医の主観により決まり、科学的な根拠は一切なく、提示できるデータもない。
 そもそも統合失調症と診断されているケースの多くを見れば、本人の意志ではなく無理やり家族に病院に連れて行かれたというケースばかりだが、その場合本当に支離滅裂であるというより、「家族の理解を超えている=異常者」という判断のもと連れて行かれるケースが跡を絶たないようだ。これは家族がいかに狭い了見しか持っていないかの表れでしかない。

「キャパ嬢になりたい」は精神病か
 一例を提示しよう。これは大学病院によりはっきりと統合失調症と診断されたケースである。しかし経過をたどればそのばかばかしさがよくみえてくる。
 その子は一八歳になって突然キャバクラ嬢になりたいと親に訴えた。一流のキャバクラの真似をしたいと一流のお酒を飲んで「どんちゃん騒ぎ」をしたのがきっかけである。
 親は頭がおかしくなったと判断し、精神科を受診させた。某大学病院の有名精神科医は親の意見から、「異常である」と判断、診断は統合失調症となり強力な薬を処方された次第である。処方された薬は次のとおり。
・ジプレキサ        一〇㎎
・ランドセン       〇・五㎎
・デパケン        四〇〇㎎
・リーマス錠       六〇〇㎎
・マグラックス330    一日九錠
・ツムラ大建中揚     一日三包

 しかし薬を飲んで何もできなくなった娘を見て、おかしいと思った親は私のところに相談に来た。
相談後、数カ月かけて薬を減量し、現在は何の薬も飲まないで元気にやっている。
 世の中にはこのようなケースがありふれている。
 確かにキャバクラ嬢になるということは、社会のエリートレールからは外れているかもしれない。このとき親は、自分の考えている価値観から外れるもの=異常であると判断したからこそ、精神科を無理やり受診させた。この行為はどんな言い訳をしようとも子どもに対してまったく無理解な、ある意味ネグレクトに近い行為といえる。そして幻覚さえないのに統合失調症と診断した有名精神科医。妄想などありませんと本人が訴えたところで、「突然キャバクラ嬢になりたいなど考え方がおかしい」「一流のキャバクラ嬢になれると考えるなど妄想にすぎぬ」と断言したのだ。
 なぜなってはいけないのか、なぜなれないと決めつけるのか。もしなれなかったとしてもそれは本人が痛みとともに知るべき事実であり、精神科医などに決めつけられる筋合いはない話である。

だれでも支離滅裂なときがある
 幻覚(幻聴)があるから統合失調症と診断する精神科医もいる。しかし幻覚とは何なのか、これは本人以外だれにもわからないはずである。
 しかし、全国の精神科では、本人が「幻覚などない」と言っているにもかかわらず、「いやあるはずだ」として統合失調症と診断する医師が跡を絶たない。
 また、もし幻覚(幻聴)があるとしても、その幻覚(幻聴)とすでにうまく付き合っている人もいる。この場合まったく治療の対象にはならないのだが、精神科医の大半はそういう人にさえ多量の向精神薬を投与しているのが日本の現状である。幻覚があるから全員統合失調症であるとは限らない。
 統合失調症と判断されている多くの人は、過去の記憶を幻視するだけで統合失調症と診断されている。これは非常にばかげたことだ。これが統合失調症の基準になりうるというなら、世の中の多くの人が統合失調症になりうる。多くの人は、ある意味でその幻視とやらをよく見ているし、その人たちが精神科を受診しないのは、それが人間としては当たり前だったり、了解可能であるとわかっているからである。
 その意味では、現在統合失調症として次々拡大診断されている患者さんたちは、適応力は低いのかもしれない。その幻覚が人間として普通にありうることを理解できていないからだ。だから何の疑いもなく精神科医の診断を信じてしまうし強力な薬を飲むことに抵抗がなくなる。こうやって一度統合失調症と診断してしまえば、一生薬を飲むしかないという理屈になるから、最高の顧客ができあがるわけだ。
 たびたび繰り返すが、統合失調症の幻覚も妄想も思考解体も、教科書に載っている他の症状も、すべて主観による判断でしかない。医師や権力者のとり方によりいくらでも異なってくるのだ。だれでも妄想をしたり支離滅裂になったりするときがあるものである。精神に何らかの症状がないことを健常とするのなら、人間はみな健常者ではなくなってしまう。
 妄想があるから他害や犯罪があるとは限らない。現在統合失調症と呼ばれる人の大多数が、とても優しい人であると認識されているからだ。
 統合失調症を病気であると判断する概念そのものが、社会がロボット管理を求めるがゆえの「おかしな行動は許さぬ」という思想に等しいのだ。
 百歩譲って本物の統合失調症があるのだとしでも、薬を飲みたい患者さんだけが、最低限度で飲んでいればよい話ではないか。躁うつ病の項でも書いたが、昔は二大精神病といって統合失調症と躁うつ病しかなかったといっても差し支えない。昔は統合失調症という呼び名ではなく精神分裂病であった。

以上、抜粋終わり

統合失調症については、

現代の精神科医療では治せないのは、

これまで主張してきた通りですが、

この疾患に関しては、

私見として少し難しい問題がからんでいると考えています。

それは霊障と言われている問題です。

現代の科学ではこの霊障と言われるものは、

解明されていませんが、

私は確実にあると考えています。

また過去に霊障にからんだ人を何人も治療したこともあり、

私自身は間違いないだろうと考えています。

ただデリケートな問題だけに、

患者自身に霊障ですと、

はっきり言ったことはありません。

ただ患者には内緒で、

いずれも自分の出来る範囲のことをしてきました。

統合失調症も霊障にからんでいるので、

基本的には、

自分の波動をあげる必要があります。

具体的には、

統合失調症は低級霊と波動が同調しているため、

変な幻覚や幻聴などの現象が起こりますが、

この状態から抜け出すためには、

極力ネガティブ思考に囚われない時間を増やすことです。

つまり物事の捉え方をポジティブな方向に変える必要があり、

そのポジティブな精神状態が長く続くほど、

波動があがり、

同調していた低級霊と同調しにくくなり、

自分の波動が変わってしまえば、

やがてその低級霊と同調しなくなり、

今まで起こっていた、

幻聴や幻視などの症状がなくなります。

この時が完全に自分を取り戻した状態です。

つまり統合失調症を治す場合、

その人の波動が上がらなければ、

回復しないということです。

私の治療の場合は、

そのことを踏まえて、

鍼灸、ヒーリング、心理カウンセリングを駆使して、

その人の心と体をケアし、

回復させるお手伝いをしています。

他にも良い治療方はありますので、

各自自分で探してください。

うつ病からの脱出ーやけ食いと何が遭うの? 「摂食障害」ー

今日のテーマは「拒食症」です。

著書『精神科は今日も、やりたい放題』から下記抜粋します。

食欲がないだけで拒食症
 摂食障害といわれる病気がある。拒食症と過食症に分けられ、交互にこれを繰り返すとされている。ここにも詐欺的な部分が多く含まれている。
 確かに食べたくても食べられない人、食べたくないのに食べてしまう人がいることは事実である。しかし何の固定観念も執着もなくこの状況に陥っている人を私は見たことがない。
 たとえば拒食症の場合、モデルのように細くないと女性として美しくないと決めてかかっている。昔(実際はそんな太ってなくても)太っていると言われたことをずっと根にもってそこに執着しているため、食べてはいけないとしか考えられない。これは教科書的には強迫性障害の延長ということになるが、同様の理屈でこれを障害と呼ぶことは妥当ではない。
 まず大事なのはこれらの考えを持っているそのものが、すでに社会的に洗脳されているのだと自覚することである。拒食といっても何かの出来事に落ち込んで(たとえば家族の死、恋人にフラれるなど)、食欲がないという状況まで最近は拒食症と診断されている始末である。
 悲しいことがあれば多くの人は食欲がなくなってなんの不思議もない。そこから食べていく過程に移るには、本人が悲しみの過程を受容していく受容期が必要なだけのことである。
 過食症の場合は同じ理由もあるが、少し様相が違う場合もある。実際には太っていないのに太っていて過食症だと、自ら申告してくる患者もいる。これは拒食症と同じ理屈でモデル志向、やせ願望の延長でしかない。
 また嫌なことがあると食べてしまうと訴えて訪れる患者もいる。これはいったい「やけ食い」となにが違うのかという問題になるこれを病気とすれば儲かるからこそ治療対象にしているのである。
 もし過食症が精神障害だというなら、やけ食いも当然精神障害になってしまう。私はそのようなことをもちろん認めはしない。
 ここまでなら病気ではないという言い方もできるが、過食症の場合、低血糖症と糖質依存症が原因になっているケースもあるから注意が必要である。これは詐欺とは少し違って、診断が間違っていると考えたほうがいいかもしれない。
 ごく簡単にいえば脳は糖質しかエネルギーとして利用できないので、容易に糖質依存となる可能性を秘めており、低血糖になると意思とは無関係に食べ物がほしくなる。よく女性が甘いものを食べると落ち着く、というのはこの前段階でしかない。これに気づかずに安易に向精神薬を飲んでしまうと、精神薬自体が糖分代謝を狂わせるため、収拾がつかなくなる。
 この場合の基本は糖質中心の食事を見直し、生活リズムを見直すよりほかに方法がないのだ。
 摂食障害において投薬治療した場合、拒食症が治ったというのは精神薬の副作用である「過食」を利用していることがほとんどである。
 過食症の場合も副作用の食欲低下を利用しているか、強迫観念そのものをうち消す方向に進めていることがほとんどである。
 もし見かけ上良くなっている場合があるとしても、その裏で薬の副作用によってさまざまな脳の機能を傷つけていることは、これまでに書いてきたとおりである。向精神薬は数日の服用でも依存症になることがあり、服用をやめるとめまい、頭痛、筋肉痛、灼熱感や視野のゆがみや過呼吸発作といった禁断症状を起こす。また不可逆的な認知障害や記憶障害もありうる。
 そこまでして薬を飲む理由があるだろうか?
 だからこそ摂食障害の治療は慎重にしなくてはいけない。拒食症が体重の著しい減少を呼び死を招くかもしれないとき、または過食症でも標準の二倍、三倍という体重になってしまい、命にさわるとき以外、医学として治療してはいけないのだ。それ以外はドツボにはまり、これまで同様詐欺にかかってしまうことを忘れないでいただきたい。
 次にあげるのは摂食障害と診断された、看護師の女性の体験談である。薬よりも考え方を変えたことが功を奏した実例としてご覧いただきたい。

 私は摂食障害の拒食と過食嘔吐の苦しみを七年かけて克服しました。その間、うつ、パニック、自殺企図などを経験し、現在は摂食障害専門の克服支援活動を行なっています。
 高校三年生のとき、大学受験のストレスと強い痩身願望により、徹底したダイエットを始めました。しかし、食べない生活をずっと続けられるわけもなく、体が飢餓状態になったからか、食欲が暴走を開始。食べたいけど、太るのは困ると思い、友達もやっているからと安易な気持ちで、食べたいだけ食べて嘔吐することを繰り返すようになりました。はじめは痩せていく自分に達成感を得ていたのと、目標体重になったらすぐにやめれると思っていましたが、徐々に中毒のようになり、どんなに気合を入れてもやめられません。
 自己コントロールができなくなったことによる焦燥感と、食べ物を吐くことの罪悪感。「なんで自分はこうなっちゃったんだろう」「一生続くのかな」と、毎日不安で怖くてドン底でした。大学の精神科の講義で「摂食障害」を知り、助けてほしいと精神科に行きました。そこで精神薬をもらい、飲み出しましたが、摂食の異常はやまず、ぼーっとして考えるのが億劫になるだけでした。そして、この時期に自殺企図が始まりました。今まで、つらいつらいと言いながらも大学の講義は受けていましたが、薬を始めた時期は授業にも集中できなくなりました。
「これじゃだめだ!薬じゃ治らない!」と思い、勝手に薬をやめ、病院に行くのをやめカウンセリングを受けることにしました。五軒ほど回りましたが、摂食障害を理解してくれているカウンセラーに出会うことはできませんでした。それで、医療に答えはないと思い、自己啓発系の本や心理治療、最新の栄養療法や海外の食事などの勉強を始めました。
 結果として私が克服できたのは、家族のサポートがあったのと、自己啓発系の本を読んだりしながら自己を認め、変でいいんだ、普通なんてないんだ、完壁なんてないんだってことを理解し、考え方を変えられたからです。

以上、抜粋終わり

みなさんは上記をどう感じられたでしょうか?

最近いろんなダイエットがありますが、

そのほとんどが、

いい加減なものがほとんどです。

部分的には正しいところもありますが、

人間の機能は一部で動かしているわけではありません。

他の器官と連動しながら、

全体としてバランスを取り、

それぞれが補完し合いながら、

体を構成しているのです。

その理解と知識が不足しているために、

安易にそのダイエットが良いと思い込み、

そして体を壊す人があとをたちません。

栄養バランスが壊れて、

体がおかしくなるのですから、

簡単に元通りになるではありません。

女性に多いようですが、

ダイエットに失敗した場合、

やり方に問題があると、

体やを壊してしまうという考えが、

スッポリ抜け落ちてます。

もしあなたがどうしても安全にダイエットをしたいなら、

医療知識や栄養学の知識のある専門家と相談しながら行うことをお勧めします。

うつ病からの脱出ー治療の先に悲惨な詰果「気分変調症」ー

今日は「気分変調症」について考えます。

著書『精神科は今日も、やりたい放題』から下記抜粋します。

薬依存の優良顧客
 気分変調症も同じである。気分変調症とはその名のとおり、気分が落ち込んだり元に戻ったりすることだが、これもまただれでも必ずある生理的反応である。
 また気分変調症の人はイライラするのを非常に嫌がるが、イライラしない人間のほうが世の中には少ないはずである。
 この定義が存在すること自体、完璧に自分をコントロールできて、いっさい感情的にならない人間以外は病気であると言っているようなものだ。
 この生理的反応を病気として取り込むことができれば、莫大な利益を得ることを知っていたから、精神医療界は後から病気に加えたのである。
 この気分変調症に対しては精神医療では、抗うつ薬を授与するやり方と、気分安定薬(躁うつ病薬)を投与するやり方がある。
 しかしどちらを選んでもだいたい悲惨な結果しか待っていない。
 一番の落とし穴は、見かけ上改善するケースが存在するということなのだが、結局は薬に依存して優良な顧客ができあがっていく。
 また、通常抗うつ薬を気分変調症に投与すると、気分の上がった状態を脳が忘れられず、ずっとその薬を欲するようになるし、気分を上げる薬だから気分変調のサイクルはむしろ安定するのではなく、増強される。波が大きくなると言ってもいい。
 この気分変調症というレベルの人に抗うつ薬を投与することで、躁うつ病のような状態になり悪化していった人は数え切れない。そして前述のとおり、逆に気分安定薬を投与すると、感情の起伏が小さくなる。
 これは一見するといいように聞こえるかもしれないが、二つの大きな問題がある。
 一つはやはり依存性で、その起伏が小さい状況を欲するがゆえに、薬に依存していく。あの薬を飲んでいないと怒ってしまったりイライラしてしまう、だからあの薬を飲み続けたいという欲求が強くなっていく。つまりここでもまた依存していく。

精神科の感情喪失患者
 もう一つは現実的な後遺症である。この場合、後遺症という言葉は正しくないかもしれないが、あえてこの言葉を使う。
 それは、この薬を飲み続けるといったいどうなるか、という問題である。
 この薬は文字どおり気分安定薬であり、気分の波を小さくするような作用を持つので、飲み続けることによりその感情状態が普通のように感じられてくるということだ。もっと簡単にいえば飲み続けることで喜怒哀楽が失われていくということである。
 たとえば家族の葬式のとき、悲しいはずなのに涙が出ない、といった服用者の体験談がある。これがもっと進めばどんな物事が起きても、能面のような顔で何一つ感じない人間 
に変わっていく。
 もしあなたが精神科に通院中なら、表情がなく感情が消失したような患者を待合室で見かけたことはないだろうか? そのようになってしまうのである。人々が本当にそんなロボットのようになりたいのだとは、私には思えない。
 私からみれば今の日本人は、喜怒哀楽を表現できなくなってきていると感じる。怒ることは社会的にいけないことだと刷り込まれている。悲しかったり泣いたりすることは恥ずかしいことだと刷り込まれている。喜んだり楽しいのは好きだが自分だけ楽しむのはいけないと感じている。本来、喜怒哀楽は人間として当然の反応であり、権利であり、これらを抑えることは何一ついいことはないのた。
 もちろん社会的に法律を侵してはいけないが、完壁な人間を求めるあまり薬を飲んで感情を平坦化することは、ロボット管理社会への第一歩といっても差し支えないのである。
 これらを総合して考えると、普遍的な精神の動向に対して、精神医療が病気と再定義することにより、儲けのルートを作って詐欺行為をしていることがよく理解できる。気分変調症はその中でもトップクラスの詐欺に属するだろう。

以上抜粋終わり

「気分変調症」と言えば、

私も多分その部類に入る。

何故なら私も日々気分が浮き沈みしているからだ。

そのブレ幅が日によって大きか小さいかだけである。

そもそも気分に浮き沈みがない人などいるのだろうか?

毎日ハイテンションなどということはありえない。

何故ならそんな精神状態では、

疲れてしまい、おかしくなってしまうからだ。

どちらかというと、

人間ネガティブに傾くようにできている。

それは人間の防衛本能上そうなっているのだ。

つまり人間は無意識の状態では、

現状維持を望むようにできている。

毎日大きな変化に見舞われてしまうと、

精神状態がついていけなくなり、

おかしくなってしまうからだ。

だから脳のシステム上、

現状維持をするために、

前向きな考えたかを抑えるようにできているのである。

だからそれを崩して、

ポジティブになるために、

脳トレや潜在意識を活用する方法などが存在するのである。

だから特に意識しなければ、

ネガティブになっているのが当たり前で、

それが病気と考える方がおかしいのである。

もちろん気分がひどいうつ状態や躁状態になることはある。

しかしその原因は低血糖症や、

頚部の血流障害など、

他にあるのである。

気分障害というのは症状、

つまり結果であって、

原因ではない。

だからもしひどい気分の状態が続くのであれば、

その原因を探らなければ治らないのである。

うつ病からの脱出ー優秀な精神科医は治療しない「人格障害」ー

今日は「人格障害」の扱いについて考察します。

著書『精神科は今日も、やりたい放題』から下記抜粋します。

精神医療業界からすれば、私も人格障害
 人格障害という言葉もある。確かにこれに関してもそういう行動形態は存在するだろう。
しかしこれもまた一種詐欺的な病名である。優秀な精神科医であれば人格障害という診断はしないし、したとしても治療対象には含めない。
 なぜなら人格障害という診断は、サイコパス、トラブルメーカー、自己中、わがまま、ナルシストなどなどと置き換えることが可能だからだ。これらが「良」といっているのではなく、これらを疾患だととらえることが間違いであると言っているのだ。
 違う言い方をすれば医師にとって都合が悪い人物は、すべて人格障害と診断できる。利権を維持しようとする精神医療業界からすれば、私は人格障害の極みであるだろう。昔でいう政治犯なども人格障害として扱われてきたし、ロック歌手もヤンキーもやくざも、教科書に沿えば人格障害と認定できる。また、たとえば非常に清廉潔白で正しい行動ができたとしても、それが集団にそぐわないとき、人格障害というレッテルを貼られる人もいる。
 実際のトラブルメーカーやリストカッターにつけられるかと思えば、逆に異端である良識者さえ同じ診断になる。こんな診断はばかばかしいとは思われないであろうか。
 繰り返すが社会に迷惑ばかりを与える人格障害的行動や思想を、無理やり「良」としているわけではない。
 この行動形態は精神医療によって治るというものではない、特に薬を授与したところで 治るようなものではないということである。
 はっきり言えば痛い目をみるとか、法律的に裁かれるとかそういうことによってしか変化したりはしない。家族が子どもの行動に困るとき、精神科に行ったところでまったく意味はないのである。
 そのような子どもの行為は長く厳しいしつけの結果か、度重なる恨みの転嫁か、もしくはその他の原因によるものであって、社会的にしか解決しえない。
 もし患者がウソをついていたらどうだろう。本当は気力が低いわけでもないのに、何らかの目的で低いとウソをつくこともあり得る。というよりかなりの数がいるといわれている。これも教科書に沿えば人格障害であり、だからこそ優秀な精神科医は治療しないわけである。
 そのような行為をこの業界では疾病利益という。なぜそんな演技やウソをつくのか。
 たとえば薬を転売する目的であることがある。自分は病気ではないのに病気のふりをすることで、飲まない薬をもらってネット上で、あるいは直接販売するのだ。これは立派な違法行為だが、法の網をかなりの人間がくぐりぬけている。
 また仕事をサボりたい、働きたくない、生活保護をもらうなどといった理由で、生活力はあるのに病気のふりをする人も多い。これも精神的にはおかしい、腐っているかもしれないが、精神病ではない。
 内科や外科では病気に対してウソなどつけない。そしてこんな診断基準がまかりとおる治療があるなどとうそぶく医療こそ、詐欺そのものではなかろうか。

以上、抜粋終わり

「人格障害」、これほどおかしい病名はない。

何をもって人格障害なのか?

そもそもこの世に完璧な人間など存在しない。

みな等しく人格的な問題を抱えており、

それを磨くために人生があるのである。

哲学や宗教はその参考にするためにあるのである。

最近は宗教と哲学の違いがわからない人が多く、

何でも変と思えば宗教だと勘違いする人が多い。

宗教とは教祖がいて、それを崇めたてる人がいるのを宗教と呼ぶ。

単なる個人の考え方はその人の人生哲学である。

その違いがわかっていないので、

何でも宗教と結び付ける傾向にある。

それに元々宗教自体が悪わけでもない。

その宗教を名乗って行う行為に問題があるのである。

何故なら宗教自体はただの哲学の一種であるからだ。

殺人行動や迷惑行為を及ぼすのは、

宗教の名を語った人間個人の選択によるものである。

そのことを混同して考えていると、

特定の宗教が悪いという考えに陥ってします。

でもよく考えてもらいたいのだが、

その宗教に属する全員が、

同じ考え、

同じ行動をしているだろうか?

多くなればなるほど、

同じ宗教の中でも多様な考え、

多様な行動をとっている。

人はそれぞれ個人の考えがあるので、

これは必然的にそうなる。

当たり前のことだ。

しかし報道では、

一派一括りにされるので、

そのものもの全体が悪いように感じさせられてしまう。

これがいわゆるマインドコントロールなのである。

話がかなり逸脱してしまったが、

要は宗教に偏見を持つのは危険であるということだ。

元々宗教は自分自身を磨くための教本なのだから、

素晴らしいものである。

教えの中味はともかくとして、

自分を磨こうと思う方々が宗教という組織に属して、

共に学ばれているのだから、

向上心のある方たちである。

なんの人生哲学もなく、

ただその日暮らしをしている人よりは、

素敵な人たちとは思われないだろうか?

少なくとも私はそのように素晴らし方たちと思っている。

まとめると人格障害というものはないし、

たとえあったとしても、

それは病院で治すものではない。

治すとしたら、

人生哲学を学び、

宗教であろうが、

スピリチュアルであろうが、

同じような考えの人たちの集まりに入り、

共に磨き合うことである。