うつ病からの脱出ー私が精神医学を「詐欺」と呼ぶワケ 1ー

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今日からは下記著者が「私が精神医学を「詐欺」と呼ぶワケ」というタイトルで書いていきます。

著書『精神科は今日も、やりたい放題』から下記抜粋します。

あなたも絶対当てはまる!ADHDチェックリスト
 さて、本章では「なぜ精神疾患が詐欺なのか?」という疑問に対して触れていくことにしよう。
 ちょっと言葉遊びのようだが、なぜ「精神症状」ではなく「精神疾患」であるか、ということについて考えていただきたい。私も、人間がさまざまな精神症状を呈さないとは、決して言わない。精神症状というのは万人に必ず存在する普遍的なものである。不安、強迫感、うつ状態、怒り、妄想、幻覚、不眠、フラッシュバック、人とのコミュニケーションへの恐怖、依存……あげればきりがなく何かが必ずあるものだ。
 問題はなぜ精神疾患が「詐欺」で、精神症状は「詐欺」ではないかを考えることの大事さである。
 ちょっと違うたとえを出すことにしよう。ものを売るということは、ただいい商品を作ればいいというものではない。ものを売るためには、その商品をどうコマーシャルするか、そしてなによりある概念から外れることは異常である、と洗脳することが重要だ。
「え、あなたまだあの商品持ってないの?それっておかしいよ」などと不安を煽ることで商品を売ろうとするわけである。
 それを精神医療界に当てはめるならいかなるとらえ方になるだろうか。現実として行なわれている手法は以下のようになる。
 日常の中で普通に存在する精神症状を、あたかも「精神疾患=医師が治療しなくてはいけない病気」と思わせるために、多くのチェックリストを作り、新聞やテレビ上で、その疾患に当てはまるかもしれないと不安を煽り、精神科に受診させようとキャンペーンを張る。
 それらは一見思いやりに満ちた善なる行為にみえるが、真に人間を良くしたいという願いから来る行為ではなく、人々にラベルを張り、不安を煽ることで、精神薬を売り上げようという、要するに精神科が儲けるための戦略なのである。
 もう少し具体的な例を出してみよう。
 次ページから掲載するのは教育現場に配られているADHDの子どもを選別するためのチェックリスト。さて、あなたはいくつ当てはまるだろうか?

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 さていかがだろうか? 答えた人全員が何らかの部分で当てはまるのではなかろうか?
 このアンケートのうち、「聞く」「話す」「読む」「書く」「計算する」「推論する」の六つの領域(各五つの設問)のうち、少なくとも一つの領域で該当項目が12ポイント以上。「不注意」「多動性・衝動性」では奇数番目の設問群(不注意)、偶数番目の設問群(「多動性・衝動性」)の少なくとも一つの辞で該当する項目が6ポイント以上(ただし、回答の0、1点を0点に、2、3点を1点にして計算)。「対人関係やこだわり等」では該当する項目が22ポイント以上。これだけでADHDという診断に結びつくのである。まったくもってふざけた話だ。
 ここに書かれている特徴はすべて「子どもそのもの、人間そのもの」であって、障害などと診断するような類のものではない。
 これはつまりどういうことかというと、人間に存在する普遍的な喜怒哀楽や性格や特徴、また集団とは違う部分をすべて抽出して、病気とするよう設定したということである。
 違う言い方をすれば普通になりたい人たちの願望を利用して、病気であるかのように見せかけているということである。
 その日的は単純明快で、糀神科医と製薬業界が儲けるためにしかすぎない。

人間は怒り、泣き、笑い、悲しむもの
 病気でないものを病気とし、薬によって良くなるものではないにもかかわらず、良くなるというウソを並べることによって、相手をだまして客=患者とし、しかもその治療は現実的に良くならないものがほとんどであるという、現代の精神医療の姿を、私は詐欺と呼んでいる。
 もし良くなる人がある程度いるのであれば、私は精神科医が大いに儲けてもらっても結構だと思う。医学に限らずすべての分野でそのようなビジネスが行なわれているのは、間違いない事実だからである。
 問題はその治療行為があまりにも成功率が低い上に、もし良くなってもそれは見せかけ上で、薬に依存させられ永久的に患者として薬を飲んでいくよう仕立てられているという、儲け第一主義の現実なのである。
 良くなるという定義も重要である。精神薬を飲み続けて保っている状態を「良くなる」とは言えないということだ。それは改善ではなく、依存だから。
 先ほどは精神症状について生理的と述べたが、今の精神医学の価値観では、精神を完全にコントロールできない人間以外はすべて精神病となってしまう。それはすべての人間にできないことであって、できるのは機械しかないというのに。
 その価値観の中では、何も知らない一般人は周囲に合わせるため、完壁を求めて薬を飲むことによって、自分の不完全な部分を補おうと考える。薬によって自分の性格を変えようとまでする。けっして薬ではその欲求が叶うことはないのにそうする。これは一般の詐欺が人の金銭的欲望を利用するのと同じように、人の評価や周囲への配慮を逆利用した巧妙な詐欺手口ともいえるだろう。
 これらを考慮すれば、この世で精神病とやらにならず生きていこうとしたら、感情を消しとおすしか道はない。
 さまざまな気質を個性として重視した時代はすでに過去のものであり、少しでも社会にそぐわないもの、異質なものはすべて病気として規定されるようになった。それがどれほどおかしいことか、今更説明は必要ないだろう。人間はちょっとしたことで怒り、泣き、笑い、悲しむ、ちょっとしたことで不安になり、どうでもいいことにこだわってしまう。
変なものが見えたり聞こえたりすることも、人によってはありうるだろう。それが普通であることを人々は忘れてしまったようだ。
 精神疾患を詐欺と呼ぶことに関しては、「善意の陰謀」という別のうまい造語を作った人がいる。善意の陰謀という言葉は、イギリスで精神薬の薬害問題に取り組んだチャールズ・メダワーの造語である。彼の邦訳された著書『暴走するクスリ?』には精神薬が開発されてきた経緯とか、権威ある学会が善意をみせつけながら、利益誘導するやり方をとらえてこう皮肉っているが、見方を広げれば精神科にかかわるすべての物事は善意の陰謀であるととらえられなくもない。つまり患者を取り巻く家族、精神科医、心理士、福祉関係者、そのすべてがいい人のふりをして、じつは裏では違うたくらみを秘めているということである。その意味で「善意の陰謀」とはうまい皮肉だが、もっと簡単に詐欺といって何が悪いのか、それが私の正直な意見なのだ。

以上、抜粋終わり

この著者のおしゃることは最もだと思われるが、

読者の方はどのように感じられただろうか?

まだまだ話は続くので、

お楽しみにしていただきたい。

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