うつ病からの脱出ー優秀な精神科医は治療しない「人格障害」ー

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今日は「人格障害」の扱いについて考察します。

著書『精神科は今日も、やりたい放題』から下記抜粋します。

精神医療業界からすれば、私も人格障害
 人格障害という言葉もある。確かにこれに関してもそういう行動形態は存在するだろう。
しかしこれもまた一種詐欺的な病名である。優秀な精神科医であれば人格障害という診断はしないし、したとしても治療対象には含めない。
 なぜなら人格障害という診断は、サイコパス、トラブルメーカー、自己中、わがまま、ナルシストなどなどと置き換えることが可能だからだ。これらが「良」といっているのではなく、これらを疾患だととらえることが間違いであると言っているのだ。
 違う言い方をすれば医師にとって都合が悪い人物は、すべて人格障害と診断できる。利権を維持しようとする精神医療業界からすれば、私は人格障害の極みであるだろう。昔でいう政治犯なども人格障害として扱われてきたし、ロック歌手もヤンキーもやくざも、教科書に沿えば人格障害と認定できる。また、たとえば非常に清廉潔白で正しい行動ができたとしても、それが集団にそぐわないとき、人格障害というレッテルを貼られる人もいる。
 実際のトラブルメーカーやリストカッターにつけられるかと思えば、逆に異端である良識者さえ同じ診断になる。こんな診断はばかばかしいとは思われないであろうか。
 繰り返すが社会に迷惑ばかりを与える人格障害的行動や思想を、無理やり「良」としているわけではない。
 この行動形態は精神医療によって治るというものではない、特に薬を授与したところで 治るようなものではないということである。
 はっきり言えば痛い目をみるとか、法律的に裁かれるとかそういうことによってしか変化したりはしない。家族が子どもの行動に困るとき、精神科に行ったところでまったく意味はないのである。
 そのような子どもの行為は長く厳しいしつけの結果か、度重なる恨みの転嫁か、もしくはその他の原因によるものであって、社会的にしか解決しえない。
 もし患者がウソをついていたらどうだろう。本当は気力が低いわけでもないのに、何らかの目的で低いとウソをつくこともあり得る。というよりかなりの数がいるといわれている。これも教科書に沿えば人格障害であり、だからこそ優秀な精神科医は治療しないわけである。
 そのような行為をこの業界では疾病利益という。なぜそんな演技やウソをつくのか。
 たとえば薬を転売する目的であることがある。自分は病気ではないのに病気のふりをすることで、飲まない薬をもらってネット上で、あるいは直接販売するのだ。これは立派な違法行為だが、法の網をかなりの人間がくぐりぬけている。
 また仕事をサボりたい、働きたくない、生活保護をもらうなどといった理由で、生活力はあるのに病気のふりをする人も多い。これも精神的にはおかしい、腐っているかもしれないが、精神病ではない。
 内科や外科では病気に対してウソなどつけない。そしてこんな診断基準がまかりとおる治療があるなどとうそぶく医療こそ、詐欺そのものではなかろうか。

以上、抜粋終わり

「人格障害」、これほどおかしい病名はない。

何をもって人格障害なのか?

そもそもこの世に完璧な人間など存在しない。

みな等しく人格的な問題を抱えており、

それを磨くために人生があるのである。

哲学や宗教はその参考にするためにあるのである。

最近は宗教と哲学の違いがわからない人が多く、

何でも変と思えば宗教だと勘違いする人が多い。

宗教とは教祖がいて、それを崇めたてる人がいるのを宗教と呼ぶ。

単なる個人の考え方はその人の人生哲学である。

その違いがわかっていないので、

何でも宗教と結び付ける傾向にある。

それに元々宗教自体が悪わけでもない。

その宗教を名乗って行う行為に問題があるのである。

何故なら宗教自体はただの哲学の一種であるからだ。

殺人行動や迷惑行為を及ぼすのは、

宗教の名を語った人間個人の選択によるものである。

そのことを混同して考えていると、

特定の宗教が悪いという考えに陥ってします。

でもよく考えてもらいたいのだが、

その宗教に属する全員が、

同じ考え、

同じ行動をしているだろうか?

多くなればなるほど、

同じ宗教の中でも多様な考え、

多様な行動をとっている。

人はそれぞれ個人の考えがあるので、

これは必然的にそうなる。

当たり前のことだ。

しかし報道では、

一派一括りにされるので、

そのものもの全体が悪いように感じさせられてしまう。

これがいわゆるマインドコントロールなのである。

話がかなり逸脱してしまったが、

要は宗教に偏見を持つのは危険であるということだ。

元々宗教は自分自身を磨くための教本なのだから、

素晴らしいものである。

教えの中味はともかくとして、

自分を磨こうと思う方々が宗教という組織に属して、

共に学ばれているのだから、

向上心のある方たちである。

なんの人生哲学もなく、

ただその日暮らしをしている人よりは、

素敵な人たちとは思われないだろうか?

少なくとも私はそのように素晴らし方たちと思っている。

まとめると人格障害というものはないし、

たとえあったとしても、

それは病院で治すものではない。

治すとしたら、

人生哲学を学び、

宗教であろうが、

スピリチュアルであろうが、

同じような考えの人たちの集まりに入り、

共に磨き合うことである。

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