今回は同テーマの第2弾です。
著書『大笑い!精神医学』から下記抜粋します。
子を精神科に通わせる親の責任
自分が教育してきたことを棚に上げて、権威や通説に身をゆだねる親が、いったいどれほどの数いるのでしょうか。その権威や通説が間違っていたらどうするのでしょう。
子どもが精神科を受診している場合、親がおかしいと思って連れていくケースがほとんどです。保健士に言われたのであってもカウンセラーに言われたのであっても、同じです。
百歩譲って最初はそれで精神科にかかってみたとしても、そこで子どもの異変に気づかなかったり、長年にわたり投薬を受け入れてきた親はいったい何を考えているのでしょうか。
そして、そのことを指摘したときに親たちが行なう正当化は、目に余るものがあります。
「なぜ私たちが責められねばならないの?」「むかつく」「私たちは悪くない」「私たちは正しかった」……と主張するわけです。子どもたちが今薬漬けになっているというのに、こうした発言をする段階で親の質が見えてこようというものです。逆に言えばその親の罪を自覚できる家族はスムーズに薬を減らすことができるのです。
もちろん親だけにすべての責任があるわけではありません。特に思春期を過ぎた子どもの場合、本人の行動や思想的な愚かさについても指摘されるべきです。
そこで必要なのは子どもと本気でぶつかりあおうという姿勢です。親がどうあるべきかについてはいろんな考え方があるでしょうが、真に親たる存在というのは、子どもや家庭を守ろうと努力するものだと思います。しかしその「守る」という言葉をはき違えている人が今の世の中にはどれだけ多いことか、数え切れないほどです。甘やかすことが守ることだと考えている親、厳しくしつけることだけが守ることだと考えている親、金銭的にサポートすることが守ることだと考えている親、人間関係の問題を精神科に持ち込むことが守ることだと考えている親、精神科医の言葉を疑わないことが守ることだと考えている親、薬を飲ませてコントロールすることが守ることだと考えている親、そんな話ばかりです。これは単に精神医学や心理学が極悪というだけでなく、日本人の劣化、親たちの劣化という問題を考慮せねばならないのです。
「発達障害は親の責任ではない」というウソ
精神科に子どもを連れてくる親というのは、自分自身が適応能力や対処能力がゼロであることを理解できていません。だから答えをすべて精神科医に求めるし、薬によって無理やり押さえつけることを好みます。教育や指導法も一貫して甘やかすか厳しいかに偏っているし、そもそも子どもに対して必要な教育がされていないケースが多いのです。また指導自体が、すべて社会に従わせることや親に従属させることを前提として行なわれていたりします。子どもはそういうことに敏感ですから、いずれの場合にしろ親を嫌がります。そしてそのことにさえ気づいていない親だらけなのです。
親子の問題はどこまでいっても親子の問題であり、社会的な問題はどこまでいっても社会的問題なのです。それを医学や精神薬が肩代わりするなどできるはずはありません。たとえそれが暴力などの刑事的問題であったとしても、それは医学ではなく警察なり司法なりが介入すべき問題なのです。
「子どもは模倣して育つ」と唱える有識者は多いですが、より正確にいうなら「模倣するか、もしくは正反対の行動を取ろうとする」ということなのだと思います。
「発達障害は親の責任ではない」という殺し文句も大ウソです。幼少期の子どもとは書き換えのきかない白いキャンバスのようなものであるということです。そしてそこにどんな絵が描かれているかは、まさに親や親戚や兄弟や友人によって規定されます。身近にいて幼少期に刷り込みや無意識の学習を繰り返すのは、その人たちですから。
生きるということはまさに生涯学習であり、子どもにとっても親にとっても、お互いに教わるものがもっとも多い関係だということを学びましょう。それがどちらの方向であれ、自分たちが不完全であり、高めていくために一生を費やしていくのだということを学びましょう。
そうした修練のときに、発達障害などという概念は不要です。この概念は思考を途絶させ成長をストップさせてしまうからです。
以上、抜粋終わり
親のなんとかしたいという気持ちはわかるのですが、
その何とかしたい努力が、
違う方向に向いているのです。
正しい情報にアクセルする必要があるのですが、
これが出来るかどうかは、
残念ながら、
その人の人間力です。
人間力に欠けるからこそ、
医者に頼ることになってしまうので、
常日ごろから人間力を高める努力が必要です。
つまり向上心を持って、
自分を高める努力を、
日々なんでも良いので、
自分の思うものに一生懸命打ち込むことです。
その日々の努力が、
あたなの未来を切り開いていくのです。