今日は「強迫性障害」について考察してみます。
著書『精神科は今日も、やりたい放題』から下記抜粋します。
強迫観念と強迫行為
強迫性障害は一般人にはなじみが薄いので、強迫性障害に対するアメリカの精神診断基準(DSM)を示してみよう。
強迫観念とは、
① 反復的、持続的な思考、衝動、または心像であり、それは障害の期間の一時期には、侵入的で不適切なものとして体験されており、強い不安や苦痛を引き起こすことがある。
② その思考、衝動または心像は、単に現実生活の問題についての過剰な心配ではない。
③ その人は、この思考、衝動、または心像を無視したり抑制したり、または何か他の思考または行為によって中和しょうと試みる。
④ その人は、その強迫的な思考、衝動、または心像が(①の場合のように外部から強制されたものではなく)自分自身の心の産物であると認識している。
強迫行為とは、
① 反復行動(例…手を洗う、順番に並べる、確認する)または心の中の行為(例…祈る、数を数える、声を出さずに言葉を繰り返す)であり、その人は強迫観念に反応して、または厳密に適用しなくてはならない規則に従って、それを行なうよう駆り立てられていると感じている。
② その行動や心の中の行為は、苦痛を予防したり、緩和したり、または何か恐ろしい出来事や状況を避けることを目的としている。しかし、この行動や心の中の行為は、それによって中和したり予防したりしようとしていることとは現実的関連を持っていないし、または明らかに過剰である。
これをもう少し砕いて言うと次のようになる。
「何で繰り返し〜〜が頭に浮かぶのか」「心配しすぎだが頭から離れない」「無意味だがやめられない」「ばかばかしいことを悩んでいるがやめられない」などの考えが出て、しかもその不合理さを認識している状態が強迫観念である。
それらが実際に手洗い、順番確認、鍵確認、儀式など(他のどんな内容でも)、嫌でも実際にやらざるを得ない状態になっているのが強迫行為である。
人ならだれでも強迫性障害?
確かにこの強迫観念がつきまとって苦しいという状況はあるかと思う。
しかしよく考えれば、頭の中に何らかの考えがめぐって悩んだり苦しいのは、人間としては必然なのではないか?百歩譲って考えても、それを助けるのは医学の役割ではなく他の学問や分野の役割である。
強迫性障害の特に強迫観念は、頑固、信念、執着、妄執など、似たような意味の言葉に置き換えることが可能だ。それはつまり強迫性障害とは病気ではなく、普遍的な存在であることを示唆するものだ。逆にいえばこの定義で厳密に考えれば、やはりすべての人間が何らかの強迫性障害になってしまう。
人間が知恵や知能を持っている以上、こだわりや強迫観念を持つのは必然でしかなく、そのこだわりが変わるときとは、大きすぎる外的変化が起きたときか、こだわりを持つ人が負けたときくらいしかないはずだからだ。
しかし現実の精神医学ではそのようには扱われない。強迫性障害は脳の病気であり(相変わらず科学的データは一切ない)、そのため投薬を受けねばならないと教科書に記されている。
心理学の教科書には認知療法といって、思想や発想を「認知転換」つまりスイッチせねばならないと書いてある。
しかしいったいどれだけの場合にそのような治療が必要だというのか?
われわれは社会観念を押し付けられた結果、認知転換して自分のこだわりを放棄せねばならないよう、すでに洗脳されているのではないか?
抗精神病薬の問題
もう一つ問題があって、それは抗精神病薬についてである。これも科学的にはいまだ未解明だが、抗精神病薬の副作用の一つに強迫観念や強迫行為の増加がある。これは教科書にも添付文書にもほとんど載っていないが、多くの精神科医が指摘するところである。
そして薬物の副作用であるにもかかわらず、強迫性障害と診断されるケースが跡を絶たない。薬を飲むから必ず副作用が出るわけではないが、時系列によってきちんと評価しなければ、あなたもすぐわけのわからない病名をつけられてしまうのが、精神医療という詐 欺世界の真髄だ。
また強迫性障害には抗うつ薬の大量投与が基本的治療であると、教科書には記されている。
しかしこの大量療法によって、強迫性障害の状態が良くなった人を私はほとんど知らない。良くなったという医師がいたとしても、その評価は非常に主観的で抗うつ薬を大量に投与したことによりハイになったり、ラリつて強迫観念が一時的にすっ飛んでしまっている状態をいっているだけである。そのうえ大量に抗うつ薬を投与するわけだから、当然さまざまな副作用や依存形成をもたらすが、糖神科医はそのことを無視している。
その結果、また新たに精神科医にとっておいしいお客様が一人できあがるわけであり、これも詐欺といえば詐欺的なやり方だ。
強迫観念など放っておけばいいのである。ここでも私の「人でなし意見」が出るわけだが、観念による苦しみや悩みは人間にとって必然であり、精神医学的に治療などしてはいけないものなのである。
もし治るとしたら、それは社会や家族のごたごたを通して軟着陸していくものでしかない。現代の社会的常識に惑わされているものも多数存在するし、こんなものを病気扱いするから薬害が増え、詐欺に引っ掛かる人が増えるのである。
「手洗いを頻繁にする青年」のケース
ここでもあるケースを紹介しよう。強迫性障害と診断する愚かさと、強迫性障害に対する治療の恐ろしさがよくみえてくる。
ある青年は風呂に時間がかかる、手洗いを頻繁にしてしまうということで精神科を受診した。通常どおりの診療の上、強迫性障害だと診断を受け投薬を開始することとなった。
薬の内容は以下のとおり。
・パキシル六〇㎎、ドグマチール一〇〇㎎、メイラックス二㎎
このパキシルという薬は、これまでにも多数出てきた悪名高いSSRIである。パキシルに限らずルボックスなどにおいても、多量処方により強迫性障害を改善させるというのが、精神科の一般的な薬物治療だ。その後このケースはどうなったか?
・家族に対して攻撃的、暴力的な性格に変貌した。
・自傷行為を行なうようになり、自殺願望が強くなった。
・幻覚が出現した。
・発狂したり叫んだりするようになった。
これらはすべて受診前には何一つ存在しない症状ばかりである。
その後、この青年はいろいろと情報をたどり、当院で減薬への道についた。
二〇一二年の段階でパキシルは一〇㎎、メイラックス二㎎に減量中であり、ドグマチールは中止することができた。これらの副作用や禁断症状と呼ぶべき現象はほぼ消失している。
ここで特筆すべきことは、お風呂に長く入りすぎてしまうという強迫観念が、現在ほとんど消失してしまっているということである。これは決して薬が効いたという類のものではない。薬を飲むことによってもたらされた予期せぬ強い苦痛により、本人の中でこのままではいけないという認知転換がはかられたのである。前述した大きな外的変化が起こったわけである。
このようなケースは枚挙にいとまがない。それでもあなたは強迫性障害とやらを治療し、薬物を飲もうとするだろうか?
以上、抜粋終わり
過剰にあることに関して反応してしまうということは、
健康な人にもよくあるこだと思います。
私にもそのようなことは時折あります。
つまり強迫的な観念は誰にでも普通にあるのです。
ただそれを病気と考えてしまうところに問題があるのです。
意識があることに過剰に集中してしまえば、
過剰に反応してしまう。
それは人間として当たり前の反応です。
ただその時パニックになっているので、
正常な反応ができず、正しい判断ができなくなるわけで、
だれでもパニックになれば起こることです。
これを精神科の病気と定義してしまうことにも問題がありますが、
相対的に現代人の耐ストレス性が低下しているため、
すぐに病気と受け入れてしまうのではないかと、
私は考察しています。