今日からは「これは病気ではない」というタイトルで考察していきます。
著書『精神科は今日も、やりたい放題』から下記抜粋します。
流行の「発達障害」という概念を広めた、わが反省
この数年で最も流行りの疾患こそ「発達障害」であろう。
そしてその発達障害が流行る原因の一つを、まぎれもなく「精神科セカンドオピニオン活動」が作り、その一部に私が含まれていたことは、申し訳ない限りである(『精神科セカンドオピニオン2』は発達障害に関する著書である)。
なぜ謝罪するか、それはこの本が世に出されたことにより、発達障害という間違った考え方がより身近なものとなり、精神科医や親たちが子どもを発達障害と診断することを、手助けすることになってしまったからである。
たとえば親が「この子は発達障害ではないでしょうか?」と相談に来るケースがかなり増えた。そのほとんどすべては私が診察した限り発達障害などというレベルではなかったのである。これはつまり私自身が善き人のふりをして、実は被害をまき散らしたということだ。私自身が善意の陰謀を働いたということである。
確かに「発達障害」によって定義されるような行動形態は存在するかもしれない。しかしあまりに不確定すぎるし日常的・生理的すぎるのだ。
この発達障害という概念の詐欺について考察していきたい。
たとえば以下は教科書に載っている発達障害の四徴である。
① 言語発達、コミュニケーション障害(無関心や対人関係の不器用)
② 社会性の障害(友人を作れず、遊ぶことが苦手)
③ 同一性保持行動(儀式化され常同化した行動を変えることへの抵抗)
④ 多くは、知的障害を合併する。
ごく簡単にいえばすべてを兼ね備えていればカナー型自閉症圏内、②と③に限局されていればアスベルガー症候群である。
しかしよく考えてみてほしい。たとえば同一性保持という言い方をすればわかりにくいかもしれないが、これは簡単にいえば頑固者だったり融通が利かないということである。
頑固でない人間なんていったいどれだけの割合存在するのだろうか?友人を作れないことが社会性の上で問題あるのなら、いったい日本人の何割がこれに該当するのだろうか?
これはしょせん団塊世代の発達障害専門医(今の流れを作った医師たち)と、製薬業界によって作り出された新たな虚構なのである。
であるにもかかわらず、私は発達障害概念をさぞ古くて新しい概念のように本を書いてまで広めてしまった。申し訳ない限りである。
隠れ蓑としての発達障害
逆にいえば、もし発達障害というものが存在するなら、それは先天的な障害であり性格的側面が強いわけだから、発達障害児の親はすべて発達障害であるし、もっといえば人類全体発達障害でないとおかしい話になる。しかしそれを認めた親を私はほとんど知らないのだ。
勉強すればするだけ発達障害などというものは「人間そのもの」であり、それが生まれた経緯はただのレッテル貼りと、大人たちが子育てにおける自分たちの無能を隠すための、「隠れ蓑」に過ぎないとわかる。大人の発達障害などはその極みであろう。
今の児童精神科医たちが発達障害を流行にした一番の理由は、それこそ「金」にほかならない。児童精神科医の間では「発達障害の生涯支援」という有名な言葉がある。つまり彼らにとって患者は、一生金を貢いでくれる存在なのである。ここでも百歩譲って発達障害という存在を認めるとしても、一生支援しなければいけないとは限らない。というより私が知っている発達障害や自閉症の人でも、ずっと続く支援など必要としていない人が圧倒的に多い。
古い時代で考えてみれば、その時代においては発達障害どころか精神疾患などという概念そのものがなかった。たとえば内気な人たちは単に内気であって、どこまでいっても個性の範疇でしかとらえられなかった。昔の女性など口数が多くてコミュニケーションがうまい女性は「あばずれ」たったのである。ところが今やこのような人間としては普遍的な特性までが、発達障害として規定されてしまうようになってしまった。
これは学校教育も同じで、いま教育現場では発達障害やアスベルガーを見つけるのに躍起になっている。学校で行なわれるアンケート用紙に答えれば、必ず発達障害になるよう質問(アンケート表)が構成されていて、向かう先は児童相談所や発達障害支援センターであり、知能や特性のばらつきを検査で指摘されて精神科へ紹介、精神薬を飲まされるというのがパターンになっている。
ここでも確かに症状が重い場合、精神遅滞(知的障害)や重症自閉症という行動形態は存在しうるかもしれない。
しかしそれでももしそれが障害だというのであれば、生活や生存のすべてが成立しないレベルでなくては、診断する必要はない。そういう特性があっても、なんの介入、支援なしに社会適応してきた団塊・戦前世代はたくさんいるのだから。
これらはすべて薬を投与して治るものではない。このように子どもにレッテル貼りしようとする行為は、すべて儲け主義の延長にすぎないのた。
以上、抜粋終わり
私がカウンセリングの勉強をしていた15年ほど前には、
今ほど精神科や心療内科はありませんでした。
また心理カウンセリングも全然認知されていませんでした。
日本の精神医療の分野は欧米と比べると、
かなり遅れていると感じていました。
そして精神患者を救う手立てが必要だと強く考えていました。
現在では精神医療分野も様変わりして、
精神科の専門病院はたくさんできました。
私はこれをずっと日本も欧米に追いつき、
素晴らしい環境が整ったのだと思っていました。
ところが実態は、
薬漬けにする治療が蔓延し、
治るどことか、
ひどくなる様相に、
これはおかしい、
とあるときからずっと感じていました。
そして調べていくうちに、
精神医療の分野が、
医療ではなく、
産業にされていることがわかってきました。
また私自身が治す医療を目指して来る過程で、
西洋医学が、
精神医療の分野では無力であることを知りました。
西洋医学の優れている面の一つは、
検査によるデータ化により、
客観性、再現性を出せるというところですが、
それは精神分野は目に見えないため、
正常と不正常の境界がはっきりしないことで、
すべての判断が曖昧だからです。
つまり検査などで数値化することができないため、
客観性が出せないということです。
そのため診断する医者によって、
診断名が変わるということになるのです。
そして処方される薬は、
これまた仮設によって作らた薬で、
最近ではその仮設も違うということがわかってきました。
はっきり言ってしまえば、
つまり治療自体がデタラメなのです。
もちろんお医者さん自体は治そうと一生懸命なのですが、
もとの治療自体がおかしいのですから、
治しようがないのです。
そしてそれを知らない患者の方は、
病院に行けば治してもらえるというマインドコントロールにかかってるので、
悲劇は未だに続いているわけです。
最近はこの著者のように本当のことを言う医療関係者やジャーナリストが増えてきたため、
真実の情報が書籍やネットで出回るようになってきました。
これらの情報にアクセルして、
理解できる人だけが、
自分を救えることになります。
つまり現代は情報力がなければ生き抜けない時代にきているのです。
自分自身で真実を追い求める心がなければ、
真実の情報にアクセスすることはできません。
この世界を幸せに生きていきたいのなら、
常に真実の情報を追い求めることを怠らないでください。